マジックフィンガーズ(2)

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身長は、ヒールを含めて180センチくらい。
グレーに赤系の差し色を入れたパンツルックにコート、ショートブーツ。
年齢は、20代の前半から半ばといったところ。

知り合いかといったら、確かに知り合いだ。
「うん」
と、訊かれたら、樹にはそう答えるしか無かった。
しかし……

両手を前につき出して、決して重くはないのだけれど非常に持ちにくい形の荷物を抱えて氷上を歩いてでもいるみたいに、マーチエキュートの閉まったシャッターの前で、右に4歩左に5歩と、大股小股交えて、よたよたと行ったり来たりしている。

よろめきながらターンするたび、頭がぐらんぐらん揺れ、それよりも大きく、肩にかかった髪が振り回される。しかし両手は変わらずまっすぐ突き出されたままだ。

そんな彼女について、
「どういう知り合いよ?」
と訊かれたら、
「う、う~ん」
と困るしか、樹にはなかった。

知り合いといっても、何回か秋葉原で顔を合わせたくらいだし、言葉を交わしたことにいたっては1度しか無かった。

7月の、はじめの事だった。


その夜、7月最初の予備校の帰り道。
そろそろ習慣になりつつあった回り道の途中の事だった。

いつもなら万世橋を渡ったところで右折し、昭和通り方面に向かう樹だったが、その夜は、何故か曲がらず、まっすぐ中央通りを進んでいった。

昭和通り側とは、まるで異なって見える人の波。
駅に向かう人より、駅から離れていく人の方がずっと多い。
ビルの入口でメイド服の店員が三人、笑顔で会話してるのを見て、ちょっとどきっとして、樹は、生まれてはじめてメイドというものを見たような気分になった。

足を止めたのは、ある建物の前だ。
建物の壁に、大きなイラストが描かれていた。

ここから先の樹の記憶に『ソフマップ』とか『ラブライブ』とかいった固有名詞は現れない。それらについて樹は、特に確かめる必要を感じていない。

少なくとも五階建て以上はありそうな建物の壁一面に描かれていたのは、アニメのキャラクターだった。学校の制服を改造したらしいブレザーにミニスカートの9人(人数だけは正確に憶えている)の女の子たち。どうやらアイドルらしい。樹が気を引かれたのは、その中のひとりだった。

イラストの左端でダブルピースする彼女は、他の8人より大柄というかグラマラスというかむっちりというか豊満で、はにかんだ様な笑顔は、他の8人と比べて窮屈そうにも見える。

その時の気分を、樹は、まだ忘れていない。
樹がその人に気付いたのは、そんなときだった。


樹と、わずか五十センチしか離れていないような場所に立ってた。
美人だけど、でも美女と認識するには、何秒かかかった。

長身を、細かいドットパターンのスーツに包んでいる。わずかに胸を膨らます柔らかなラインと、ヒールとマニキュアを見て、ようやく樹は、彼女が女性だと確信できたのだけど、肩にかかった髪が、仮にあと一センチ短かったとしたら、それも危うかったかもしれない。

美しさより先に、まずは凛々しさが伝わってくるタイプの美貌だった。
形の良い眉をひそめて、彼女が何をしているかといったら、写真撮影だ。

「う、うーん。なんだこれ……あれ? また暗くなっちゃった」

スマホのカメラの操作に四苦八苦している、その被写体はといったら、ついさっさきまで樹も見上げていた『彼女たち』だった。

「うーん、明るさはいいんだけど、今度はピントが……あっ!!」

彼女の手から、スマホが滑り落ちた。
落下した距離は、しかし僅か30センチ。
横から現れた手が、キャッチしていた。
誰の手かは、いうまでも無いだろう。
「あ……」
驚きの声を漏らしたのは、彼女でなく、咄嗟に手を伸ばした樹の方だった。
そのときの気持を、樹はまだ忘れていない。
彼女にスマホを返して、そして、自分でも不思議なほど淀みなく、申し出ていた。

「あの、代わりに撮影しましょうか? そのアプリ、自分も使ってるから、操作慣れてるし……」

それにたいして女性は、ふにゃっと笑って「お願いします」と。
いったん返したスマホをまた受け取って、写真を撮って、女性に返した。
それだけだった。
特に、そのあとお茶をしたりといったことも無く、どちらが先立ったか、樹の記憶ではあいまいだが、別々にその場を去った。

そのときの気持ちを、樹は、まだ忘れていない。


もしかしたら、樹は、イラストの『彼女たち』を再開するためにアニメを観て、夢中になったりしていたのかもしれない。

もしかしたら、樹は、スマホの女性と会うために、電気街に足を運んでいたかもしれない。

でも、どちらも、無かった。

イラストの左端の『彼女』について、たとえば樹が調べたりすることは無かった。
ツイッターを検索したりすれば『彼女』について知ることは、それほど難しいことでは無かっただろう。

スマホの女性とも、万世橋の交差点や、秋葉原公園の辺りで何度かすれ違ったりしたのだが、お互いに会釈して、それだけだった。

だから、樹の記憶に『ソフマップ』とか『ラブライブ』とか『東條希』といった固有名詞は現れない。それらについて樹は、特に確かめる必要を感じていないし、むしろそうすることを避けるようにしていることには、樹自身も気付いている。

そんな心の動きを、樹は、うまく説明できない。
ただ、一回、一瞬だけ、こう思ったことがある。
(このためか)
と。


7月16日。
大阪王将の前。

歩道から店内を見つめる小津美愛。

樹は思った。
(このためか)
と。

だから自分は、イラストの『彼女』にも、スマホの女性にも、恋することを――恋してしまう可能性を生み出すような行為を、遠ざけていたのだ。

しかし、
(このためか)
とは思っても、
(よりによって、ハードル高すぎる)
とも、同時に思って、怯んでいた。

でも、声をかけていた。

「あの、小津さんだよね……よかったら、一緒に入らない?」

樹は、小津美愛を、大阪王将に誘っていた。

あの気持だった。
『彼女』を見上げていた時や、スマホをキャッチした時と、同じ気持だった。















肉の万世も、いつものコースに入っている。
万世橋を渡り、清澄端通りの交差点で右折すれば、後は一直線。その前に一息付く場所として、二人は肉の万世を使っていた。

でもそれは、万世の一階に、コンビニが出来てからだ。
牛の看板のビルに、中央通りに面した入り口から入ると、右に売店と喫茶店。左にコンビニスリーエフ。二人は、毎週スリーエフに寄って、コンビニ商品としては明らかに高額なソーセージやハムを眺めた後、店頭ドリップのコーヒーを買い、神田川側の店頭で飲むことにしている。ちなみに万世名物のカツサンドは、まだ買ったことがない。

ところでそんな二人には、ある疑問があった。
とても小さな、どうでもいい疑問だったのだが――
12月31日。
大晦日の今日、ついに解答がもたらされることとなった。
美愛が言った。

「この戦車の名前、わかったよ」

スリーエフの、中央通り側の入り口。
その脇に、アクリルの展示ケースがある。
二段になっていて、上の段はカツサンドが三種類。
そして下の段には、ペーパークラフトが展示されている。
戦車のペーパークラフトだ。
ふたつあって、ひとつは子猫。もうひとつは子犬くらいの大きさだった。
小さい方を指さして、美愛は言った。
「こっちは四号洗車」
大きい方は、
「マウスっていうんだって」
と。

そう言いながら、美愛は、そっと樹の反応を窺っていた。
(あ。ムッとしてる)
予想通りだった。

美愛のような特にオタクでもない女子が戦車の名前を知っているということは、きっと誰かに=男性に教わったに違いないと、男子高校生である樹は考えるに違いない、という予想を美愛はしていたのだが、見事に当たってたみたいだ。

樹の表情からは、嫉妬と困惑と同時に、それらを隠そうとする感情までもがありありと窺えて、美愛は満足する。罪悪感は、不思議なほどに皆無だ。きっとそれは、樹の感情の混乱と同じだけの何かが美愛の中にあるからなのだろう。それは、つまり――美愛は、考えるのをやめた。
顔が赤くなりそうだった。

「例の、親戚の人に聞いた」

そんな回答で、とりあえず樹は安堵してくれたみたいだった。

「そ、そうなんだ……」

今日は、いつもと違って、何も買わずにスリーエフを出た。
店を出たのも、BIGAPPLEを臨む神田川側ではなく、入ってきた中央通り側からだ。

「あ、あれ。何だろ?」

美愛が指さしたのは、中央通りを挟んだ向こう――マーチエキュート神田万世橋。
中央線のガード下を利用した商業施設は、今日はもう閉まっている。
問題は、その前に立つ人だった。

「ゔ……」
詰まった声を漏らす樹に、美愛は予感した。
「知ってる人?」
「う、うん……」
予感が当たった。
美愛は、さっきの樹の表情を思い出す。

すごい美人が、死ぬ寸前の動物みたいなダンスを踊っていた。

バレてはいない。
でも、美愛が外見とは違って、かなり無防備な人であることは、樹も察している。

美少女なのに、美愛には彼氏がいない。
性格が悪いからだという人もいる。
しかし樹には、そうは思えない――と、

(!?)

一瞬、美愛の姿が消えた。
焦って辺りを見回すと――気付くと、

「……うん。そういうことだから」

美愛が、樹の右手に触れていた。
そしてまた、前に出る。
樹は、絶句の直前みたいな状態になる。

(赤かった……)

一瞬見えた、美愛の頬は赤かった。
雪に、そういう色の果実を埋めたみたいに。
寒さのせいだろうか?
でも……

(そんなわけ、無いか。いくら東京が寒くても――)

そんなはずは、無かった。
明日あたり、雪が降ってもおかしくなさそうな空を見上げる。
そんな樹の頭上をJRのガードが通り過ぎていった。
サンクスを越えて、もうひとつJRのガード。
ひとつ目が山手線と京浜東北線で、ふたつめは中央線だ。

岩本町の交差点に出た。
靖国通りと、中央通りが交わる場所だ。
中央通りを右に行けば、秋葉原。
左に行けば、神田。

では、ここは?

思って、ふと振り向いた樹の目に最初に飛び込んだのは――小諸そばの看板だった。
夜のプールで潜水したら、こんな感じだろうか?
暗く深く碧い夜空。
並び立つビルの真ん中に『EDION』――秋葉原電気街。

美愛は、既に右を――秋葉原を見てた。
その背中を押すように、樹は歩き出す。
そして思い出す。
ここがどこであるにせよ、二人が行く先は、ひとつしか無かったのだった。

樹の真ん中に、言葉が浮かび上がった。
それは、
『彼氏』
さっき、美愛が言った言葉だ。

美愛は、性格が悪いわけでは無いと、樹は思う。
単純に、無愛想で目つきが悪いだけだ。

彼女の信奉者たちは、彼女を『クールビューティー』と表現している。その言葉の中には、無愛想なのも、目つきが悪いのも要素として入っているのだろう。なるほどと、樹は思う。でも樹にとっての美愛は『クールビューティー』ではない。しかし『だったらなんなんだ?』と訊かれたら、返す言葉がない。

あえていうなら、目の前の美愛から感じる全てだ。
やはりその中には、無愛想なのも、目つきが悪いのも含まれている。それごと、自分は美愛を好きなのだと思う。

だから――苦労はしないのだ。
簡単に言葉にできるなら、苦労なんて、何も無いのだ。

憤りとも違う何かが、樹の心に広がっていく。

その間に二人ははなまるうどんの前を過ぎ、さっき靖国通りで潜ったばかりの中央線のガードが中央通りにも跨っているのをまた潜って、万世橋まであと三十メートル。
肉の万世に入った。

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