マジックフィンガーズ(2)

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それからもう、五ヶ月以上経ったことになる。
大阪王将も、大晦日の今日は早仕舞いしたみたいだった。
ガラス窓の向こう、外からの光にぼんやり浮かび上がるテーブルには、残らず椅子が乗せられている。

七月一六日以降、美愛と樹は、毎週同じコースを帰っていた。
二一時二十分を過ぎたくらい。美愛がコンビニの前に立ってると、樹がやってくる。たまたま顔を合わせて、たまたま同じコースで駅まで歩く。『勘違いしないで』と、いつでも誰にでも、この話題が出るたびに美愛は言う。『待ち合わせとかしてないから』と。『偶然だから』と――言いながら美愛は、内心で自分に言い聞かせている。

(これで誤魔化せてるんだから、いいじゃない)

主に、性格の問題だ。
美愛が先を歩き、すぐ後を樹が歩く。
真後ろから見れば、わずかに肩が重なって見えるだろう。

二人が通る時間、いつも、靖国通りは暗い。
開いてる店といったら大阪王将とJRのガードの先のサンクスくらいで、今夜とどこが違うのかといったら、いま通り過ぎた大阪王将が開いてるかどうかくらいのものだ。

それでも、ずいぶん印象は変わる。
それは、きっと――美愛は思った。

(大事なのは、この場を満たしている光ではなく、そこを歩く私の印象に残る光、つまり……)

美愛には、信奉者がいる。
学校にも予備校にもだ。彼や彼女たちは、美愛の無愛想や目つきの悪さを『クールビューティー』と言い換えて賞賛の対象としている。彼らのそんな機転と優しさを、美愛は密かに讃えている。そこに皮肉はない。彼らが美愛の美貌を褒めそやすのと同じく、美愛も彼らに敬意を抱いていた。

そんなクールビューティーの美愛だが、時折、ぼーっとした考えに囚われることがある。
(……つまり、いつもなら開いてるって憶えてる店が閉まってるから、いつもより暗く感じるという……って、そのまんまじゃない)
それに気付いて赤面することも、しばしば。
(ばかだな、私。あー、やばい。顔、見せられんない)
美愛がいつも先を歩くのには、そういう理由もあった。

(でももう……バレちゃってるんだろうな)

大阪王将は、店舗によって閉店時間が異なる。
靖国通り店の閉店時間は、朝四時だった。

もっとも樹は、そんな時間にこの店を訪れたことはない。
いつも通りかかるのは、遅くても二一時三十分より前だし、その日までは、店の中に入ったこともなかった。

その日とは、初めて美愛と言葉をかわした、七月一六日のことだ。

樹は思った。
誰かを、呪い殺そうとでもしているのかと。
そう思わざるをえない表情で、彼女は、のぼりがはためく路上から店内を睨みつけていた。
しかし、こちらに向けられた横顔は美しい。
思わず、息を呑んでいた。

(小津……美愛)

彼女の顔も名前も、知っていた。
予備校に通い始めたのは、樹と同じ高校二年の四月。
そして四月半ばには、彼女は既に予備校の有名人になっていた。
理由は、もちろん、美少女だからだ。

『地下アイドルのライブにいる女』

誰かが、そんな風に評していた。
地下アイドルのライブでは、ステージよりも、むしろ客席の方に美女・美少女がいる。地下アイドルのライブに来る女性は珍しいが、女性客の中に主役のアイドルをはるかに凌ぐ美人がいることは、決して珍しくないのだそうだ。小津美愛は、そういったアイドルのライブにいる女の様だというのだが――樹には分かるようで分からない喩えで、そもそも地下アイドルという呼び方から喚起されるイメージも希薄だ。小津美愛が、とにかくすごい美少女なのには変わりがない。そのこと自体は、樹自身もチラ見で確認済みだった。

性格が悪いという噂もあるが、樹にはどうでも良かった。

樹――というより十代の少年にとっては、顔か身体のどちらかが良ければ、それだけで恋愛対象だ。この場合の恋愛とは結婚を前提としたそれであり、十代の少年とは童貞を意味していると考えて、ほぼ差し支えない。というわけで、五月の時点で彼女は樹の中の『付き合う女候補リスト』に入れられていた。それから同時に、心の中の『死ぬまで関わることがない人』の棚に置かれてもいた。

そんな樹が、路上で美愛と出くわした。
樹は――
(うわあ……)
はっきり、この邂逅を嫌がっていた。

例えるなら、お腹いっぱいのところにご馳走を持って来られたような、そんな心境だった。

(え、ちょっと!?)美愛を追って、樹も交差点を渡る。(がっかりしてるのかな。それとも……)からかわれたことに抗議したい気持ちはあるが、それより(ホッとしてるのかな……)よくわからない自分の気持ちに対する戸惑いのほうが、大きかった。

いつも通り、靖国通り沿いに直進するコースを選んだ。

樹も美愛も、予備校では毎週水曜日の講座を取っている。
始まるのは十八時で、終わるのは二十一時。
いろいろあって、予備校のビルを出るのは、二十一時二十分といったところ。

樹の使っている駅は、日比谷線の秋葉原駅だから、あとは昭和通りに出て右――上野方面に歩くだけでいい。和泉橋を渡ったところにある駅入口には、三分もかからず到着するだろう。

そうして、二十一時二十八分の中目黒行きに乗り、三十五分には自宅最寄り駅のホームに降り立っていた。
少なくとも、予備校に通い始めて、最初の一ヶ月は。

樹に訪れた心境の変化については、彼自身の言葉を使って説明するなら、
単純に「面倒くさくなっちゃった」のだった。

予備校から駅まで、三分もかからない距離を歩くのが面倒くさくなって、それでどうしたかといえば、樹の選択は逆だった。

昭和通りに出て、右ではなく左――神田方面に向かって歩く。

それから岩本町の交差点を渡り、靖国通りを御茶ノ水方面に歩いて、JRのガードを潜り、須田町の交差点で右折。そのまま万世橋を渡ったところでまた右折して、アソビットシティ、カラオケ館の看板を見上げながら外堀通りを進み、エックス、矢まと、ゴーゴーカレー、最後にらーめん威風の前を通って、昭和通りに出る。最後は横断歩道を渡り、書泉ブックタワーの裏にある入口から、日比谷線の駅に。

まっすぐ駅に行くよりもずっと遠回りだが、気分的には、こちらのほうが楽だった。
理由は、樹にもわからない。
わからないまま、夏休み前には、それが普通になっていた。

初めて美愛と会話したのも、その頃だった。
 
日付は七月一六日。
樹の記憶では、時計は二一時二五分を指していた。
大阪王将の時計だった。 

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