奥田千嘉良は、秋葉原に疎い。

これまでの人生で、アニメを観たり、パソコンに触れたりしたことはあっても、そこから、いわゆる『アキバ文化』に踏み込み、のめり込んだことはなかった。

だから、電車が神田を過ぎた辺りから聞こえ始めたこんな会話も――

「ほら、奥さん! ここよ! ここでしょ?『萌え~』って言うんでしょ?」
「あら! 違うわよ奥さん。最近は『萌え~』じゃなくて『ブヒる』って言うらしいわよ!」

「この時期ってさ、メロンの前で死んでる奴、多くねえ?」
「いるいる! コミケからアキバに流して力尽きた地方民」

「4日目、どうする?」
「休むでしょ。それで戦果の確認でしょ」

――まったく、意味不明なのだった。

そんな感じで、まったく秋葉原と繋がりを持たない千嘉良だったのだが、

『秋葉原~秋葉原~』

大晦日の今日、秋葉原で電車を降りた。
目的は、ラーメンだ。

千嘉良が贔屓にしている新橋のラーメン屋が、秋葉原に支店を出したのが数ヶ月前。
支店の方も試してみようと思う千嘉良だったが、忙しくて機会がなかった。

それで、ようやく時間が取れたのが、大晦日の今日だったというわけなのだった。

電車を降りたのと同時に、

「いでっ!」

ホームを走ってきた男と、肩がぶつかった。

千嘉良の、メガネが飛んだ。
男のメガネも飛んだ。

メガネ同士の激突だった。

そして――

「うおわちゃぁあぁあああああっ!」

――怪鳥の如き叫び声をあげてメガネを拾うと、男は大股で電車に飛び乗っていった。

同時に、電車のドアが閉まる。

窓の向こうで、男が両手を掲げ跪き、電車の天井を仰いでいるのが見えた。
ホームまで届く叫びは、ガラス越しで少しくぐもっていた。

「俺は自由だ!!!」

電車が走り出す。
そんなわけで、千嘉良が文句を言う間もなく、男は去って行ってしまった。

しばらく呆然とした後、はっと思い出してメガネを拾いながら、

(秋葉原って!怖えぇええええ……)

あんな危なそうな男と、下手に口論になったりしなくて良かったと、千嘉良は心の底から安堵するのだった。



その頃――
秋葉原駅から歩いて5分の場所にある、マンションの一室。

壁沿いに、ぐるりと回りこむように配置された事務机。
机と机の境目を、またいで並べられたパソコン。

コピー用紙を敷いた上に、放置されたプリント基板。
付箋紙でパンパンに膨らんだ、技術書。

そんな、見るからに開発室な部屋の真ん中で、浅田茜は憤怒を叫んでいた。

「ぶっ、ざっ、げっ、ん”っ、な”ぁあああああああああ!」

足元に倒れているのは、私物のエルゴノミクスチェア。
仁王立ちで両手を空に掲げていた――まるでさっき千嘉良とぶつかった、あの男みたいに。

「ぶっゴロズ! ぶっゴロズ!! ぶっゴロズ!!!」

茜は――女性として見るなら、美人と言って良いのだろう。
ちゃんと風呂に入り、ちゃんと髪を整えて、ちゃんとした服装さえしていれば。

「わだぢの自由わぁ”あ”あ”! どうなるん”じゃあ”あ”あ”あ”あ”あ”っっっっっっ!!!!」

しかし、そうしていない現在の印象をいうなら
『三浪中の浪人生』
というのが一番近かった。

きらりと、レンズが光った。
茜の背後の机に、メガネが置いてあった。
千嘉良が着けているメガネ――それから千嘉良にぶつかってきた男が着けてたメガネに、そっくりなメガネだった。

ただ、違ったのは――
そのメガネは、USBケーブルで、パソコンと接続されていた。

パソコンの画面には、何かのリストらしきウインドウが表示されている。

『オブジェクト』と書かれた列に並ぶ単語は『UDX』『ヨドバシ』『ソフマップ本店』『ダイビル』――秋葉原にある、ビルの名前だ。

ウインドウのタイトルバーには、こうあった。

『マジックフィンガーズ』

そして………
再び茜が机に向かい、キーボードを叩きだすまでに、

「やってらんない!やってらんない!やってらんない……むしゃむしゃむしゃ」

紙パックの烏龍茶が700ミリリットルと6本の魚肉ソーセージ、2ピースのチーズケーキ、それから7分45秒の時間が費やされることとなった。

 
茜と千嘉良が出会う、7時間前のことだった。