歩き出したら、足の震えが止まった。

隣を歩く千嘉良は、時々うしろを振り向いては、ロシア人に手招きして何か言ってる。
その度に、千嘉良もロシア人も、大声で笑う。

「ロシア語、出来るんですね」
「うん、ちょっとだけ――留学してたから。師匠の同行で、サンボを習いに」
「そっか。格闘技、やってたんですよね」
「試合には、出たことないんだけどね」

茜は、いまさら考えていた。

(どういう人なんだろう?)
(美人でケンカが強くてロシア語が話せて中身も外見も男前な)
(1日に4杯もラーメンを食べる社長令嬢って……あ!)

「おわっとぉ!」
つまづいて転びかける千嘉良を見て、

(……おまけに、ちょっとドジだなんて、完璧じゃないですか)

思わず胸を押さえたら、奥の方が、とくんとくん騒がしくなってた。

(心臓!心臓!運動不足なのにいっぱい歩いたから、心臓がびっくりしてるだけ!)

そんな茜の横で千嘉良は、
「はぇえー……はぁあ。ほお……ふぅうん。流行ってるなあ、濃厚鶏白湯」
楽、がんこラーメン、良平、モミジ――蔵前橋通りに並ぶラーメン屋に、興味津々の様子だった。

(このぉ……)

ちょっと、意地悪してやりたくなった。

「デートみたいですね」

顔を近づけて言ってやったら、

「うん……そう?だね?」

手で顔を隠して、千嘉良は、そっぽを向いてしまった。

(なんて、可愛らしい人なんだろう)

胸の奥が、ますます騒がしくなっていく。
さっきまでは、まるで泣いた後みたいに頼りなかったその場所が、何かで満たされていく。

それがどういうことなのかは、茜も理解していた。
声が出た。

「あ」

妻恋坂の交差点を、曲がったところでだった。
足が止まった。
身体の芯が凍りついたように寒くて、なのに顔だけはどんどん熱くなっていく。

「ヴァジャゥ ステイシーデ ツンナ スルドゥシ シグナル」

ロシア人を先に行かせて、千嘉良が言った。
「歩いて」
肩を抱かれた。
「言ってみな」
促されて、茜がようやく口を開いたのは『ほっともっと』を過ぎた辺りでだった。


「私が社長と別れたのが、去年のいまくらいで。

その頃は、毎日、細かいテストと修正の繰り返しで、その日も、テストでこの辺りを歩いてたんです。

山形くん――彼と一緒に。

彼が、社長と付き合ってたことがあるのは知っていました。
だから、私が社長と付き合ってたことも、もう別れたことも、彼には黙っていました。

でも――
『俺も、同じパターンでしたよ』
って……彼、気付いてたみたいで。

この道を、歩きながらでした。

慰めてくれて、それで……
とても、優しくしてくれて……」


千嘉良は言った。
「泣いちまえ」


千嘉良の声がした。
「泣いちまえ」
抱かれた肩が、痛いほどだった。

まるで全身を握りしめられてるみたいで――茜は思った。

(この人は、優しい)

神田明神下で曲がって、行列に並んだ。
境内に入るなり、人混みに大騒ぎしながら、ロシア人たちは、どこかに消えてしまった。
お参りして、おみくじを引いて、絵馬を書いて、甘酒を飲んだ。

(この人は、社長や山形君みたいに、私を裏切ったりしないと思う)

神田明神下まで戻って、そのまま真っすぐ中央通りまで出て、
「アイカツばんざ~い!」
クラブセガの前で大騒ぎしてる人たちの声を聞きながら、さっきと同じ、ベルサール前の横断歩道を渡る。

(きっと、私との関係を大事にしてくれる)

ガンダムカフェが見えるところまで来た。
駅前の広場で、ライブをしてる人がいた。

(でも――だから、)


普段なら終電があって、それを口実に出来る。
でも今日は、朝までJRが動いている。
茜と一緒に、ライブを眺める人たちに混じりながら、千嘉良は唸った。

(そもそも終電があったとしても――それを口実に、何をする?)

根本的な部分での問いだった。
そして、単純な問いでもあった。

(答えは2択)
(帰るか?)
(それとも帰らずに一緒にいるか?)
(どうしたいんだ?この、自分ってやつは)

隣を見た。
茜は、既にメイド服ではなかった。

マジックフィンガーの効果は、いつの間にか消えてしまっていた。
神田明神下を、渡った辺りでだろうか?
それとも、0時を過ぎた辺りでだろうか?
千嘉良には、わからない――ぞくり。

『で、どうするの?』

誰かに訊かれた気がして、千嘉良は、思わず後ろを振り向きそうになる。
それから、茜を見た。
そしたら、茜も千嘉良を見てた。

「これ、あなたのですよね?」

メガネを差し出す手。
茜の呟き。

「山形君……」

どんな風に遠ざかっていったかは、憶えてない。
茜と、突然現われた茜の彼氏は、いなくなってた。

「貞夫さんにふられて……慰めてくれた山形って奴と付き合って、」

ライブも、終わっていた。

「山形にふられそうになったら、今度は奥田千嘉良って奴に慰められて……」

千嘉良は、メガネをかけた。

「って、同じことを繰り返すわけにはいかないよね」

何の魔法も起こせない、ただのメガネだった。


茜と千嘉良が出会ってから、4時間が経っていた。