歩き出したら、足の震えが止まった。
隣を歩く千嘉良は、時々うしろを振り向いては、ロシア人に手招きして何か言ってる。
その度に、千嘉良もロシア人も、大声で笑う。
「ロシア語、出来るんですね」
「うん、ちょっとだけ――留学してたから。師匠の同行で、サンボを習いに」
「そっか。格闘技、やってたんですよね」
「試合には、出たことないんだけどね」
茜は、いまさら考えていた。
(どういう人なんだろう?)
(美人でケンカが強くてロシア語が話せて中身も外見も男前な)
(1日に4杯もラーメンを食べる社長令嬢って……あ!)
「おわっとぉ!」
つまづいて転びかける千嘉良を見て、
(……おまけに、ちょっとドジだなんて、完璧じゃないですか)
思わず胸を押さえたら、奥の方が、とくんとくん騒がしくなってた。
(心臓!心臓!運動不足なのにいっぱい歩いたから、心臓がびっくりしてるだけ!)
そんな茜の横で千嘉良は、
「はぇえー……はぁあ。ほお……ふぅうん。流行ってるなあ、濃厚鶏白湯」
楽、がんこラーメン、良平、モミジ――蔵前橋通りに並ぶラーメン屋に、興味津々の様子だった。
(このぉ……)
ちょっと、意地悪してやりたくなった。
「デートみたいですね」
顔を近づけて言ってやったら、
「うん……そう?だね?」
手で顔を隠して、千嘉良は、そっぽを向いてしまった。
(なんて、可愛らしい人なんだろう)
胸の奥が、ますます騒がしくなっていく。
さっきまでは、まるで泣いた後みたいに頼りなかったその場所が、何かで満たされていく。
それがどういうことなのかは、茜も理解していた。
声が出た。
「あ」
妻恋坂の交差点を、曲がったところでだった。
足が止まった。
身体の芯が凍りついたように寒くて、なのに顔だけはどんどん熱くなっていく。
「ヴァジャゥ ステイシーデ ツンナ スルドゥシ シグナル」
ロシア人を先に行かせて、千嘉良が言った。
「歩いて」
肩を抱かれた。
「言ってみな」
促されて、茜がようやく口を開いたのは『ほっともっと』を過ぎた辺りでだった。
●
「私が社長と別れたのが、去年のいまくらいで。
その頃は、毎日、細かいテストと修正の繰り返しで、その日も、テストでこの辺りを歩いてたんです。
山形くん――彼と一緒に。
彼が、社長と付き合ってたことがあるのは知っていました。
だから、私が社長と付き合ってたことも、もう別れたことも、彼には黙っていました。
でも――
『俺も、同じパターンでしたよ』
って……彼、気付いてたみたいで。
この道を、歩きながらでした。
慰めてくれて、それで……
とても、優しくしてくれて……」
●
千嘉良は言った。
「泣いちまえ」
●
千嘉良の声がした。
「泣いちまえ」
抱かれた肩が、痛いほどだった。
まるで全身を握りしめられてるみたいで――茜は思った。
(この人は、優しい)
神田明神下で曲がって、行列に並んだ。
境内に入るなり、人混みに大騒ぎしながら、ロシア人たちは、どこかに消えてしまった。
お参りして、おみくじを引いて、絵馬を書いて、甘酒を飲んだ。
(この人は、社長や山形君みたいに、私を裏切ったりしないと思う)
神田明神下まで戻って、そのまま真っすぐ中央通りまで出て、
「アイカツばんざ~い!」
クラブセガの前で大騒ぎしてる人たちの声を聞きながら、さっきと同じ、ベルサール前の横断歩道を渡る。
(きっと、私との関係を大事にしてくれる)
ガンダムカフェが見えるところまで来た。
駅前の広場で、ライブをしてる人がいた。
(でも――だから、)
●
普段なら終電があって、それを口実に出来る。
でも今日は、朝までJRが動いている。
茜と一緒に、ライブを眺める人たちに混じりながら、千嘉良は唸った。
(そもそも終電があったとしても――それを口実に、何をする?)
根本的な部分での問いだった。
そして、単純な問いでもあった。
(答えは2択)
(帰るか?)
(それとも帰らずに一緒にいるか?)
(どうしたいんだ?この、自分ってやつは)
隣を見た。
茜は、既にメイド服ではなかった。
マジックフィンガーの効果は、いつの間にか消えてしまっていた。
神田明神下を、渡った辺りでだろうか?
それとも、0時を過ぎた辺りでだろうか?
千嘉良には、わからない――ぞくり。
『で、どうするの?』
誰かに訊かれた気がして、千嘉良は、思わず後ろを振り向きそうになる。
それから、茜を見た。
そしたら、茜も千嘉良を見てた。
「これ、あなたのですよね?」
メガネを差し出す手。
茜の呟き。
「山形君……」
どんな風に遠ざかっていったかは、憶えてない。
茜と、突然現われた茜の彼氏は、いなくなってた。
「貞夫さんにふられて……慰めてくれた山形って奴と付き合って、」
ライブも、終わっていた。
「山形にふられそうになったら、今度は奥田千嘉良って奴に慰められて……」
千嘉良は、メガネをかけた。
「って、同じことを繰り返すわけにはいかないよね」
何の魔法も起こせない、ただのメガネだった。
茜と千嘉良が出会ってから、4時間が経っていた。
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