マジックフィンガーズ(2)

カテゴリ: マジックフィンガーズ

奥田千嘉良は、秋葉原に疎い。

これまでの人生で、アニメを観たり、パソコンに触れたりしたことはあっても、そこから、いわゆる『アキバ文化』に踏み込み、のめり込んだことはなかった。

だから、電車が神田を過ぎた辺りから聞こえ始めたこんな会話も――

「ほら、奥さん! ここよ! ここでしょ?『萌え~』って言うんでしょ?」
「あら! 違うわよ奥さん。最近は『萌え~』じゃなくて『ブヒる』って言うらしいわよ!」

「この時期ってさ、メロンの前で死んでる奴、多くねえ?」
「いるいる! コミケからアキバに流して力尽きた地方民」

「4日目、どうする?」
「休むでしょ。それで戦果の確認でしょ」

――まったく、意味不明なのだった。

そんな感じで、まったく秋葉原と繋がりを持たない千嘉良だったのだが、

『秋葉原~秋葉原~』

大晦日の今日、秋葉原で電車を降りた。
目的は、ラーメンだ。

千嘉良が贔屓にしている新橋のラーメン屋が、秋葉原に支店を出したのが数ヶ月前。
支店の方も試してみようと思う千嘉良だったが、忙しくて機会がなかった。

それで、ようやく時間が取れたのが、大晦日の今日だったというわけなのだった。

電車を降りたのと同時に、

「いでっ!」

ホームを走ってきた男と、肩がぶつかった。

千嘉良の、メガネが飛んだ。
男のメガネも飛んだ。

メガネ同士の激突だった。

そして――

「うおわちゃぁあぁあああああっ!」

――怪鳥の如き叫び声をあげてメガネを拾うと、男は大股で電車に飛び乗っていった。

同時に、電車のドアが閉まる。

窓の向こうで、男が両手を掲げ跪き、電車の天井を仰いでいるのが見えた。
ホームまで届く叫びは、ガラス越しで少しくぐもっていた。

「俺は自由だ!!!」

電車が走り出す。
そんなわけで、千嘉良が文句を言う間もなく、男は去って行ってしまった。

しばらく呆然とした後、はっと思い出してメガネを拾いながら、

(秋葉原って!怖えぇええええ……)

あんな危なそうな男と、下手に口論になったりしなくて良かったと、千嘉良は心の底から安堵するのだった。



その頃――
秋葉原駅から歩いて5分の場所にある、マンションの一室。

壁沿いに、ぐるりと回りこむように配置された事務机。
机と机の境目を、またいで並べられたパソコン。

コピー用紙を敷いた上に、放置されたプリント基板。
付箋紙でパンパンに膨らんだ、技術書。

そんな、見るからに開発室な部屋の真ん中で、浅田茜は憤怒を叫んでいた。

「ぶっ、ざっ、げっ、ん”っ、な”ぁあああああああああ!」

足元に倒れているのは、私物のエルゴノミクスチェア。
仁王立ちで両手を空に掲げていた――まるでさっき千嘉良とぶつかった、あの男みたいに。

「ぶっゴロズ! ぶっゴロズ!! ぶっゴロズ!!!」

茜は――女性として見るなら、美人と言って良いのだろう。
ちゃんと風呂に入り、ちゃんと髪を整えて、ちゃんとした服装さえしていれば。

「わだぢの自由わぁ”あ”あ”! どうなるん”じゃあ”あ”あ”あ”あ”あ”っっっっっっ!!!!」

しかし、そうしていない現在の印象をいうなら
『三浪中の浪人生』
というのが一番近かった。

きらりと、レンズが光った。
茜の背後の机に、メガネが置いてあった。
千嘉良が着けているメガネ――それから千嘉良にぶつかってきた男が着けてたメガネに、そっくりなメガネだった。

ただ、違ったのは――
そのメガネは、USBケーブルで、パソコンと接続されていた。

パソコンの画面には、何かのリストらしきウインドウが表示されている。

『オブジェクト』と書かれた列に並ぶ単語は『UDX』『ヨドバシ』『ソフマップ本店』『ダイビル』――秋葉原にある、ビルの名前だ。

ウインドウのタイトルバーには、こうあった。

『マジックフィンガーズ』

そして………
再び茜が机に向かい、キーボードを叩きだすまでに、

「やってらんない!やってらんない!やってらんない……むしゃむしゃむしゃ」

紙パックの烏龍茶が700ミリリットルと6本の魚肉ソーセージ、2ピースのチーズケーキ、それから7分45秒の時間が費やされることとなった。

 
茜と千嘉良が出会う、7時間前のことだった。 

千嘉良が秋葉原に着いたのが、午後3時過ぎ。
これから向かうのはランチ営業と夜営業の区別の無い店だから、これで問題ない。

目当ての店には、10分もかからず着いた。

 
「ああ……山形くん?
いいよ。
もう、怒ってない。

戻ってこなくていい。
君は、君の自由を楽しんでよ。

いや、別にクビの宣告ってわけじゃないから。

うん。

まあ……なんとかなりそう。
っていうか、既にゴール目前。

昌平橋通りから南と、川から南は、全部カット。
そう。
だから、本番は……うん。

三菱東京UFJの前からスタートして、教会の辺りまで行って、長竹ビルまで直進したら、またそこで中央通りに戻る、みたいな。

多分、それくらいのルートだったら、変なオペさえしなかったら保つでしょ。
例のメモリーリークも、なんとか誤魔化せる。

うん。
うん……結局、抜本的な対処は、本番が終わってから。

私?

私は、一応テストっていうか……あ、そうだ。
これから、テストだけ手伝ってよ。

一緒にルートをなぞってくれるだけでいいから…………え?

いま、アキバじゃない?
じゃあ、どこにいるのよ――って、新潟!?」


地下にある店から地上に出ると、すっかり暗くなっていた。

ガードレールに腰掛け、千嘉良は、通りの向こうのドン・キホーテを眺めている。
ホットッドッグに、たこ焼き、クレープ……
売ってるものだけ見たら、まるで、あそこだけ縁日みたいだ。

ラーメンでお腹がいっぱいになってなかったら、ちょっと食べてみたかったかもしれない。

「4店、回ったか……」

結果として、今日、秋葉原に来たのは、大正解だった。
まず、最初に入った店が良かった。

濃厚鶏白湯がウリの店で、あえてあっさり味のラーメンを選んだのだが、さっぱりとした味わいが、逆にスープの素性の良さを伝えてきて、思わず、
「うまい……」
千嘉良は、呟いていた。
 
満足して店を出て、思った。
「もしかして……秋葉原のラーメンって、ヤバいんじゃないか?」
ネットの情報で分かったつもりになっていたが、これは、考えを改めるべきだろう。

そうと決まったら、後は早かった。
スマホで秋葉原のラーメン店を検索し、めぼしい店の中から、大晦日の今日も営業している店をピックアップした。

結果として、千嘉良が食したのは――

・最初に入った店の「あっさり鶏白湯らーめん」
・中太麺に麻婆豆腐風の餡がかかった「雷々麺」
・行列に、あと3人遅く並んでたら食べられなかった限定麺「至福の浅利そば」
・トンカツをトッピングした「ロース濃厚ラーメン」
 
――といったラーメンたちだった。

ラーメン屋が多い街はいくらでもある。
しかし、そういった街が、ラーメン激戦区と呼ばれるかどうかは、別だ。

両者の間には、明らかな境界線がある。
網羅されるジャンル、味のバラエティ、店舗間の緊張感、玉石混交ぶり……

今日、千嘉良が体験した秋葉原は、明らかに 『激戦区』側に足を踏み入れていた。

(また、この街に来るんだろうな)

千嘉良は思った。
この街に通って、この街のラーメンがどうなっていくのか、見てみたかった。
それに値する何かが、この街で起こっているような気がした。

そうしたら、こうも思えてきた。
(ここって――どういう街なんだ?)
と。



「嘘でしょ?
だって、君のメガネ、GPSだと、まだアキバだよ!?
昼間に逃げて、駅まで行ったかと思ったら、また外に出て、
ずーっと電気街をぐるぐる……おい。

いま、なんて言った?

メガネを、落とした?

電車に乗る時、人にぶつかって、その人のメガネと入れ替わった!?」

茜の視線の先では、パソコンの画面に地図が映しだされている。
点滅する光点が、いま留まっているのは――

中央通り、ドンキホーテの前。

「……………………マジかよ」

田茜と千嘉良が出会うまで、あと30分。
 

(あー、どうしよう!?)

茜は焦った。

「あー、どうしよう!?」 

口に出して言ってみたら、ちょっと落ち着いた。

改めて、パソコンのディスプレイを見る。 

地図上で、点滅してる光。
いまは、ドン・キホーテとUDXの間をうろうろしている。

現在の時刻は、午後9時30分。

てっきり、あいつだと思っていたのだ。
あいつ――仕事を放り出して逃げた、山形。

ちょうど、午後3時になろうかという頃だった。
遅い昼食を食べてたら、いきなり、

「自由! 当たり! 正義! 無限!」

おにぎりを握りつぶしながら叫びを上げ、そのままペットボトルで壁を叩きながら出て行ってしまった。

ぼいーんぽいーんぽひーんほひーん……
壁を叩く音が、ドップラー効果付きで遠ざかっていく。

突然の出来事に、しばらく呆然とした後、

「『当たり』ってなんなのよ。『当たり』って……」

ぼやきながら山形の携帯に電話をかけると、既に着信拒否になっていた。

ツー、ツー、ツー……

「最初から逃げるつもりだったな? にゃろう……でも、」

それでも、山形の居所をつかむことは出来た。
山形のメガネに着けたGPSの電波を辿ればいい。
奴は――

(駅に入って――また出た?)

とりあえず秋葉原に留まって、こちらの出方を見ているといったところか?

(完全に、放り出したわけではないってことか)

そう思うと、血が登った頭も少しは冷めてきた。

その後は仕事をしながら、横目でモニターを見張っていた。
モニターに映る、地図上の光点を。

(まずは、へぇ……ラーメンか。昼ごはん、途中だったしね。この店って、つけ麺も美味しいんだよね……)

仕事の期限は、今日まで。
おまけに、逃げた山形の分まで自分がやらなきゃならない。

こんな状況で、これ以上つまらないこだわりを抱えてるわけにはいかなかった。
猛烈にキーボードをタイプする。

(ふむ、次は……餡かけの餡に、さつま揚げが入ってるんだよね。この店)

切るか残すかで迷ってた部分は、全部、ばっさり切ることにした。
そうしたら、途端に視界が良好になった。

更に猛烈な勢いでキーボードをタイプする。
途中で入る定型的な作業では、ゲーミングマウスが役立った。

(またラーメン! 自棄食いか!? 自棄ラーメンか?)

午後8時をすぎる頃には、作業は終了して、あとはテストを残すのみとなっていた。

(え、まだ食べるの? 今度はうどん――あ、この店って、うどん屋からラーメン屋に業態変えたんだった……)

そして、茜がテストの準備を終えた頃……
山形から、電話がかかってきたのだった。


「で? 見知らぬ人とメガネが入れ替わって? それで君は、新潟で何をしているのかな?」 

 嫌味っぽく問いかけたら、返ってきた答えは――

「はぁ? アイドル居酒屋で寿司食ってる? 寿司はともかく、アイドル居酒屋? メイドじゃなくて? それってアキバよりよっぽど進んでんじゃん! っていうか、新潟にアイドルっているの? ロコドル!? ああ……ローカルアイドルね。聞いたことあるかも……うん。Negiccoは知ってる。でも、RYUTISTは知らない。え? 中学生? 君ってロリコンだったの!?」

懸命に弁明する山形の声を聞きながら、茜は微笑していた。
心の奥で凝り固まっていた何かが、解けていくような気がしていた。

山形の声のバックには、キラキラした歌声と、野太い声援。
きっと『アイドル』がステージでショーでも演っているのだろう。

「うん、いいよ。テストは私一人でやっとくから――ゆっくりしてきなよ。でも、お正月中には、一度会いたいな。ばか。そういう意地悪、言うなよ……私だって、浮気しちゃうかもしれないよ?ふふ……焦った?ごめんね。好き好き。うん、大好き。じゃあね。良いお年を。愛してる」

ヘッドセットのマイクにキスして、恋人兼会社の後輩との通話を終え、それから10分。
再び、地図を見る。

地図上の光点は、まだドンキホーテの周辺をうろついていた。

「待ってろよぉ……」

コートを羽織ると、茜はマンションの部屋を出た。

(しっかし、1日で4杯もラーメン食べるなんて、どんなデブなんだろうね……)

そんな、失礼なことを考えながら。
 
 
茜と千嘉良が出会うまで、あと5分。 

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